鹿児島隠れ念仏等を研修(広報委員会)
去る2月13日から15日までの二泊三日で、広報委員会が「鹿児島隠れ念仏」や「知覧特攻平和記念館」等を尋ねました。
薩摩藩主・島津氏は、水戸学・復古神道の思想により、藩内寺院1,066の全寺院をつぶし、約3千の僧侶を悉く還俗させました。水戸学により、『大日本史』の編集に携わった藤田東湖は、「仏教を信じるものは愚民であり、僧侶は悪賢くて、人民をたぶらかす道具に仏教を使っている」「日本古来の神を崇めまつることが、日本人の信仰の中心でなければならない」と述べています。島津氏は、その思想により廃仏毀釈を断行し、その取り掛かりとして自らの菩提寺である福昌寺を潰したのです。
その廃仏毀釈の中で一向宗(浄土真宗)の門徒は、穴(ガマ)を掘り、人里離れた洞に隠れ、清流の音で称名の声を消しながら、信仰を続けました。その一向宗を、島津藩は根絶やしにしたのです。
鹿児島は、アジア・太平洋戦争末期に、多くの大日本帝国陸軍の特別攻撃隊が編成されたところです。今回は、その旧特攻基地に建てられた万世特攻平和祈念館と知覧特攻平和会館、そして当時、軍用として扱われた旧富屋食堂を尋ねました。
富屋食堂は、「特攻の母」として慕われた鳥浜トメさん家族が経営していました。旧食堂内には、トメさん家族と特攻隊員との交流が多く展示されていました。
その中に、一人の特攻隊員とその彼女の写真があり、二人のエピソードが綴られていました。その隊員は、彼女や家族、郷里へのおもいを断ち切れず、幾度も出撃しながら帰ってきたそうです。しかし1945年5月30日、その隊員は「隼」に乗って郷里に飛び、生まれ育った家、卒業した小学校、そして麦刈りに汗を流していた父母の頭上を何度も何度も旋回しました。そして急激に高度を下げて、畑に突っ込み即死したそうです。
ここに、「戦死者」や「柱」として賛美称賛される必要のない、そして「非国民」として差別される必要のない、苦悩する生死の人間そのものをいただきました。お二人の写真を前にして、自然と念仏が出ました。
仏のちかいをもきき、念仏もうして、ひさしうなりておわしまさんひとびとは、この世のあしきことをいとうしるし、この身のあしきことをいといすてんとおぼしめすしるしもそうろうべしとこそおぼえそうらえ。
― 親鸞聖人御消息集(広本) 『真宗聖典』P561 ―