金沢教区同朋大会 開催報告
/カテゴリ: 御遠忌, 行事報告 /作成者: 設計人権と平和の旅 2017.2.23
/カテゴリ: 行事報告 /作成者: 設計2017年2月23日から24日までの一泊二日の日程で、京都を会場に「非戦平和問題学習会・人権と平和の旅」を開催しました。参加者は、1960・70年代の京都を通して、『竹田の子守唄』『イムジン河』の背景にある「人間の悲しみと存在」を感知することを想い10名が参加しました。
『竹田の子守唄』
守りもいやがる 盆から先にゃ 雪もちらつくし 子も泣くし
盆がきたとて なにうれしかろ 帷子はなし 帯はなし
この子よう泣く 守りをばいじる 守りも一日 やせるやら
はよもゆきたや この在所こえて むこうに見えるは 親のうち
むこうに見えるは 親のうち
むこうに見えるは 親のうち
『竹田の子守唄』は、被差別部落に在る女性たちに口伝わりました。貧しい家庭に生まれた、おおよそ5歳から12歳までの少女は、裕福な農家などの赤ん坊の面倒を見る仕事(守り子)をしました。赤ちゃんを背負い、村町の空き地や寺社境内で『竹田の子守唄』を口ずさんだのです。『竹田の子守唄』は、あずかった子どもをあやす唄ではなく、学校にも行けずに差別の中に在る辛い身の上を綴った唄だったのです。
竹田女性部の方々から『竹田の子守唄』の元唄を拝聴したり、竹田地区についてお聞きしました。
私たちが石川から来たことを知ると、石川での辛い経験を語られました。
以前、石川で『竹田の子守唄』を歌う機会があり、片山津温泉に投宿したそうです。宿泊した翌朝の退館のときに、ホテル側から「丹前がひとつ無くなった。あんたらが盗んだんやろ!?」という嫌疑がかけられたそうです。車中にいた竹田女性部の方たちは全ての手荷物を持って下車し、駐車場の地面の上でバックの中身を曝け出しました。もちろん、丹前が出てくるはずもなかったのですが、ホテル側からは何の謝りもなかったそうです。辛い被差別の体験談をお聞きしました。
柳原銀行記念資料館
柳原銀行は、全国でも唯一の被差別部落民が地元に建てた銀行です。国道の拡幅工事に伴い、買収され取り壊されることになっていたのですが、町のシンボルである建物の保存運動が盛り上がります。地区の人々は1989年に「地区の文化遺産を守る会」を結成。地元住民をはじめ市民・労働者から約300万円の募金を集め、1997年に資料館として移築・復元されました。
柳原銀行記念資料館には、地域の歴史が納められています。京都に五つあった被差別部落のひとつでありました。川の水を利用して、皮革業を生業としていました。
祇園祭には山車を出せず、村内で山車をつくり祭りを催したそうです。
銀行展示資料
京都朝鮮中高級学校
京都朝鮮中高級学校では、かつて日本が奪った全てのものを大切にしていました。母国語である朝鮮語、民族衣装チマ・チョゴリの制服、朝鮮の文化、同胞、先祖のおもい、民族的自覚。そして母国である朝鮮。更には、日本人との友好な関係をもとめるなど、差別の中にあって、人間として尊くも大切な多くのものを受け伝えている人間育成の現場だと感じました。
お昼には、給食もいただきました。給食は、生徒のお母さんたちがつくっておられました。アットホームな雰囲気が学校全体からにじみ出ています。卒業を間じかに控えた高級3年生の教室をたずねました。私たちが教室に入ると『イムジン河』を歌ってくださいました。
イムジン河水清く とうとうと流る 水鳥自由に 群がり飛びかうよ
我が祖国 南の地 思いは遥か イムジン河水清く とうとうと流る
北の大地から 南の空へ 飛び行く鳥よ 自由の使者よ
誰が祖国を ふたつに分けてしまったの 誰が祖国を 分けてしまったの
イムジン河空遠く 虹よかかっておくれ 河よ思いを 伝えておくれ
ふるさとを いつまでも 忘れはしない イムジン河水清く とうとうと流る
1967年4月の東京・渋谷公会堂で、ザ・フォーク・クルセダーズは、東京で初めて『イムジン河』を披露しました。そこで、「ボクたちは今日新幹線で東京に来ましたが、『河』はいたる所にある。分断の悲劇は南北だけではない。世界中にある。あなたのまわりにも『イムジン河』はあるんです…」と語りかけたそうです。日本人としてこの国、この時代に生まれた、自らの宿業、実存的責任を考えさせられました。
京都朝鮮中高級学校にて
京都市人権資料展示施設「ツラッティ千本」
千本地域では、長年にわたって住民の手による同和問題解決への取り組みが進められてきました。それは地域内にとどまらず、「まちづくり」という形で、広範な市民ぐるみの取り組みがなされ、「共生・永住・自治」をテーマとしたまちづくり運動が展開されています。
ツラッティ千本では、京都の市街と郊外の景観や、風俗を描いた屏風絵『洛中洛外図』にも皮革業に従事した被差別部落の人々が描かれており、京の人々の生活に密着していたことが伺い知ることができました。
資料展示を観覧した後に、千本地域のフィールドワークをしました。とても汚れた長屋だったものが、同和対策事業により集合住宅となったそうです。しかし、集合住宅になったがゆえに、人と人とが疎遠になっていきました。そして離散するものや高齢化が進み、とてもさみしい地域へと変わっていきました。そのことを踏まえ、新しいまちづくりが進められています。
千本フィールドワーク
(教区解放運動推進委員会)
鹿児島隠れ念仏等を研修(広報委員会)
/カテゴリ: 行事報告 /作成者: 設計去る2月13日から15日までの二泊三日で、広報委員会が「鹿児島隠れ念仏」や「知覧特攻平和記念館」等を尋ねました。
薩摩藩主・島津氏は、水戸学・復古神道の思想により、藩内寺院1,066の全寺院をつぶし、約3千の僧侶を悉く還俗させました。水戸学により、『大日本史』の編集に携わった藤田東湖は、「仏教を信じるものは愚民であり、僧侶は悪賢くて、人民をたぶらかす道具に仏教を使っている」「日本古来の神を崇めまつることが、日本人の信仰の中心でなければならない」と述べています。島津氏は、その思想により廃仏毀釈を断行し、その取り掛かりとして自らの菩提寺である福昌寺を潰したのです。
その廃仏毀釈の中で一向宗(浄土真宗)の門徒は、穴(ガマ)を掘り、人里離れた洞に隠れ、清流の音で称名の声を消しながら、信仰を続けました。その一向宗を、島津藩は根絶やしにしたのです。
鹿児島は、アジア・太平洋戦争末期に、多くの大日本帝国陸軍の特別攻撃隊が編成されたところです。今回は、その旧特攻基地に建てられた万世特攻平和祈念館と知覧特攻平和会館、そして当時、軍用として扱われた旧富屋食堂を尋ねました。
富屋食堂は、「特攻の母」として慕われた鳥浜トメさん家族が経営していました。旧食堂内には、トメさん家族と特攻隊員との交流が多く展示されていました。
その中に、一人の特攻隊員とその彼女の写真があり、二人のエピソードが綴られていました。その隊員は、彼女や家族、郷里へのおもいを断ち切れず、幾度も出撃しながら帰ってきたそうです。しかし1945年5月30日、その隊員は「隼」に乗って郷里に飛び、生まれ育った家、卒業した小学校、そして麦刈りに汗を流していた父母の頭上を何度も何度も旋回しました。そして急激に高度を下げて、畑に突っ込み即死したそうです。
ここに、「戦死者」や「柱」として賛美称賛される必要のない、そして「非国民」として差別される必要のない、苦悩する生死の人間そのものをいただきました。お二人の写真を前にして、自然と念仏が出ました。
仏のちかいをもきき、念仏もうして、ひさしうなりておわしまさんひとびとは、この世のあしきことをいとうしるし、この身のあしきことをいといすてんとおぼしめすしるしもそうろうべしとこそおぼえそうらえ。
― 親鸞聖人御消息集(広本) 『真宗聖典』P561 ―